Essai「名前→記憶→関係」


Bonsoir、ノタキラです。

今宵は、過去に書いたEssai(エッセー)をお届けします(3年前ごろ執筆、一部加筆修正)。

正直、自分で読んでも当時何を考えていたか謎です(笑)。

じめじめとした空気を換えられるかどうかは、おたのし…って、わかりませんね…。

では、どうぞ。

Essai「名前→記憶→関係」

まるのうち、どんな名前だっていい。その場所が他と区別できるなら。同じ名前だって、違う特徴があれば、それが他のものとは異なるものだって理解できる。

じゃあ、名前っていったいなんなんだろう。

「おい、まるのうち」

それで振り返ってくれればいいんじゃないか。おまけに、

「なに?」って返事をしてくれれば、なお良い。

では、おんなじ名前を付けるとどうなるか。

「おい、やえす」「なんだよ、やえす」

名前が同じだと他の人と区別がつきづらくなって不便かもしれない。それは、田舎にはコンビニがあまりないのと同じくらい不便だ。

ん?コンビニが少ない不便さと、同じ名前が引き起こす不便さは同じ類いの不便さなのかって?

詳しいことは知らないよ。

余計なことには首をつっこまない、合理的無知だよ。細かいことは専門家に聞こうよ。専門家にも仕事をあげよう。専門家だってお腹がすくもんだろ。

「ひょっとしたら不便にもいくつか種類があるのでは?」と疑問が湧いただけで、僕らにとっては成功だ。こういうのを脱線というらしい。君は元の話題を思い出せるかい?

「お名前は?」

「名前というものは、もう10年前に捨ててしまいました。当時の名前は、覚えているのですが、ここで公表してしまうと10年前に捨てた意味がなくなってしまうので、明かすことができません」

「では、あなたをなんとお呼びすれば良いでしょうか?」

「いま、仰っている、あなた、でもいいですし、君、お前、おぬし、などなんでもいいです。この場で私が特定できればいいです」

「わかりました。この場ではあなたのことを『あなた』と呼ばせていただきます。しかし、もし私があなたのことを他の誰かに説明する時は、なんとお呼びすれば良いでしょうか?」

「そうですね、6月18日に会った男と言ってもらえば、十分でしょう。いささか迂遠な言い方かもしれませんが、それが私が名前を捨てたことの代償です。ご不便をお掛けしますが、ご了承ください」

「覚えておくということ」

大切だと思うことをずっと覚えておきたいなら記憶が「記憶さん」になるまで覚えなければならない。記憶というものは、気まぐれで、自分が覚えたいものをすぐに覚えさせてくれるとは限らない。どうでもいいと思っていることを案外覚えていたりする。自分が覚えていたいものは、「記憶さん」になるまで、繰り返し唱えたり、イメージしたりしなくてはならない。

「記憶さん」は専門家たちの間では、「長期記憶」と呼ぶらしい。「短期記憶」という用語もあるらしいが、これは、怒りっぽい近所の太郎くんと同じように、くん付けで、「記憶くん」とでも呼んでおこう。

僕が名付けた「記憶さん」と「記憶くん」。専門家が共有している「長期記憶」と「短期記憶」。

専門家は「短期記憶」を先にもってきて、「長期記憶」を後にもってくる傾向にある。これは、一度「短期記憶」となった記憶は、時間が経つと「長期記憶」になる事情を反映させているのだろう。記憶において時間は、短期から長期へと順番に流れる。たぶん、専門家は、僕の時系列ならざるこの文章を読んだら、少ししっくりこない感じ、違和感を抱くだろう。

記憶をテーマに、名付けの具体例を示したように、名付けは一見、自由に思えるけれど、見えないルールでがんじがらめに縛られている。名付けは、伝え手と受け手が「よし、わかった。その名前でいこう!」と合意しなければ、成立しない。

「呼ぶ人と呼ばれる人」

儚い夢とは、何か。無である。想像である。叶えた瞬間に夢でなくなるものである。お腹が出たおじさんも、統一感のないファッションをした大学生カップルも夢をもつ。夢は「はかない」から、死んだ後も生き続けるものなんじゃないかな。そう思うと、なんだか希望が湧いてくると同時に、遺された「モノ」に託された責任を感じる。

全ての悩みは、人間関係によるものだ。『嫌われる勇気』ではそう断言する。人間関係というと漠然としていて、その言葉が示す範囲がとてつもなく広く感じる。少なくとも僕はそう感じる。

「関係」と聞くと、紙の上に鉛筆で丸を離れ離れに2つ描き、その丸と丸を「出て行く」矢印と「やって来る」矢印で結びたくなる。そんなイメージ。言葉だけで、紙面の落書きを説明するのは難しいけど、今回の落書き描写で伝えたいことは、何となく伝わったのではないかと思う。

人間関係は、「人間」という語が「関係」を修飾していることから分かるように人が2人以上いないと成り立たない。以上いない、って、ちょっとややこしくなってしまった。こういうのを脱線っていうんだよね?文章だと脱線から戻るのって話す場合よりもはるかに難しい。

人間関係が2人、3人、4人…とどんどん増えてくると、その関係たちが「社会」と見做されていく。専門家は、2人の「関係」からもう「社会」なんだと言う。動物や物も入れると言う専門家もいるから、2人ではなく「2者」で、もう「社会」なのかもしれない。自分と他者。丸と丸。そしてそれを繋ぐ「出て行く」矢印と「やって来る」矢印。

丸と丸が重なることは、あるのだろうか。

ふたつが溶け合うようにして融合する。結びつく。離れなくなる。人は、そうやって2つが不可分、一緒になることを夢見ている存在なのかもしれない。儚い。

Essai「名前記憶関係」」は、そんな感じ。

fin.

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