「遊びが足りないんじゃないの?」


Bonjour、ノタキラです。

ブログ更新の流れが止まっていたので、再び蛇口を捻って流れを作ろうとする春になりました。
水道管が凍ってしまい、蛇口を捻っても「あれ、水でねぇや。いまじゃねぇな。まいっか」みたいな冬の時代から春の時代になったのではないかと思うので、この投稿を弾みにして、いい流れを作っていければなと思います。

四季があるから士気が上がるなんてことを考えながら、投稿をリリースします。

それでは、どうぞ!

「遊びが足りないんじゃないの?」

遊びが足りないよ。真面目に将来のことなんて考えたって、将来のことなんて誰もわからないでしょうよ。いまから遊ぶんだ。誰かに評価してもらうわけでもないから、もっと自由にもっと面白く。

さて、何から始めようか。いや、その考え自体、間違っている。やること、出会うこと全てで遊ぶんだ。何に出会っても遊べるようになること。それが遊びに習熟するということだ。

 

もう面白くて仕方ないだろう。そうだろ。興奮してきただろう?

遊んでいいんだよ。むしろなんで今まで遊んじゃダメだったの?
これから出会う出来事、人々に最大の祝福、笑いと遊び心を。
それこそ、「贈与」じゃん。いままでの人生のお礼。

遊べ。だから遊べ。とりあえず遊べ。つまるところ遊べ。

何をしてもいいんだから、何をしようかなんて悩む必要すらないだろう。
だって、掃除も洗濯も料理も散歩も買い物も全部遊びになるんだぜ。
いままで頭が硬かった。コチコチだったわ。

 

遊びがなければ、俺の人生じゃない。いままで誰かの人生を生きていたようだ。
濁った水溜りから息を吹き返し、その水面を見つめられるようになったとき、混沌を形容する言葉を手に入れる。その瞬間、人は実際的な大人になると信じて疑わない。

そう、遊びは失敗することがないんだよ。覚えておきな。夢中になっていると気づかないかもしれないが、大事なことだ。遊びがより遊びらしくなる上で。

 

遊んでいて楽しいのは、なぜだろう。遊びという行為に入れられるのは、常に自分が楽しいと思っている行為だからだろう。遊びは楽しくなければならない。また楽しくなければ遊びではない。

つまり、行為に対して遊びを仕掛けることで、楽しくなるのである。

 

では、仕掛けるのに必要な条件は何か。唯一の条件は、遊び心である。余裕がなければできない。余裕とは時間的余裕、生理的余裕である。

やりたいことがないと悩んでいるときは、遊ぶという行為に膜がかかって見えなくなっている状態である。やりたいことという高尚なものはない。何かに取り憑かれたように行動することを理想としているならば、そのような妄信的な行動は、やりたいことではなく、やるべきこと、Missionに他ならない。

 

やりたいことがないなんて悩んでいるかもしれないが、結局は、みんな楽しみたいのだ。幸せになりたいのだ。それをさせないでおこうとする社会に毒されてはいけない。遊びなさい。あえて命令形でいいます。それくらい社会の目は厳しいから。眼光鋭く、動きが固まってしまうくらい。

遊ぶんだ。意味なんて考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。

あっそーべ!あっかんべぇ。

 

「遊びが足りないんじゃないの?」は、そんな感じ。

fin.

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