やりたい「ことがら」


Bonjour!おはようございます。ノタキラです。

本日は、文書ファイルを整理していたら見つけた、なかなか面白かった(自分で言うのもなんですが)、2019年5月18日に書いた文章をお届けしたいと思います。(一部、加筆修正)

※途中、少々高圧的な表現が含まれておりますが、あくまで演出上の表現なので、そのあたりのご理解ご承知おきのほど、よろしくお願いいたします。

では、どうぞ!

やりたい「ことがら」

意味もなく「ことがら」の意味について考える。考えすぎだろうか。いや俺はそれでいいんだ。過ぎることを知りすぎることこそいけないと知っているから。なにも哲学的な話題に持ち込もうという魂胆ではない。そこに俺の意志は働いていない。もちろん、ご存知でしょうが。

だからといって、たまたま書いた文が哲学的になっていたとしまっても文句は言わないでほしい。それは書き手と読み手の相互作用がもたらした結果であり、結果の責任は双方、いや、どちらにもないとも言えるのだから。で、俺が書こうとしていることは「ことがら」についてだ。ことがらは、がらだ。意味は意味だ。いわゆるラベルだ。

辞書には意味というラベルが並んでいると考えてもらえば話は簡単だ。辞書に意味を登録するつもりである「ことがら」について考えられたら、素敵な時間になる気がする。そうなると疑わないと言っておいて、あとで訂正するのも面白いかもしれない。聞き手には迷惑だろうが。そんなことを気にしていたら、重要な問題である「ことがら」について考え損ねる気がするから先に進ませていただく。

「意味」が世界を変える

ここは、俺の意見の表明スペースなので、どう紙面を使おうと俺の自由だ。読むのをやめたければやめればいい。段落がないことが気になるなら、途中で切り取って紙の左端にくっつければいい。なにもかもを作者に求めるのは、レディメイドな人生だとは思わないか。それって卑怯でずるい生き方だろ。な、そう思うだろ。

って畳み掛けて洗脳する技術は、現代では流行らないだろうな。インターネットが予防法を流布させたし、洗脳法を洗練させた。そう、気づかないうちに俺たちは洗脳されてしまっているんだよ。テレビ、新聞、広告なんかによって。

「ことがら」に意味をつける作業は、そんな洗脳の網、ネットワークをくぐり抜けたところでしか有効に働かない。ビズィがビジネスの元だというが、まさにくぐり抜ける過程は、いくつもの忙しいほどの障害があり(それは目に見えるものだけとは限らないし、ほとんどが無意識にさえ作用しているから手強い)、障害を乗り越えた先にしか意味は見出されない。それをやり遂げた時、意味が世界を変え、ひいては世の中を変える力となる。われわれの手をはなれて自己進展し始めたら、ミッションコンプリートだ。おつかれさま。

合図によって自己認識する危うい存在

おつかれさまが、仕事からの解放の合図だとしたら、会社を学校に置き換えたとき、終了のチャイムベルの代わりに「おつかれさま」という音声を流せばいい。わかりやすいだろ?

合図を必要としているのは、自分ひとりでは区切りというものがつけられないからだ。だから人の行動を参考にするし、時計の針を気にするし、究極は太陽からの光量によって自分の回復する時間を確保する。「人は一人では生きられない」というのは、他の人がいなければというイメージだろうが、人は他に動く実体がなければ自己さえも認識できない危うい存在ということだ。拡散も凝縮もない。ただただ漠然として生きる。

生きていると断定できるのか?

「どうやったって人は生きられる」と言う人がいる。それは、すでに生きているからこそ言えることであって、もう死んでしまった人は、そんなことは物理的にも形而上的にも言えない。

生きることは、面倒で鈍臭っくって、惨めだ。どんなに生き様を洗練させたって失敗はするし、後悔もする。うまく生きようなんて考えること自体が、無様なのかもしれない。かもしれないが多すぎるのかもしれない。騎士団長はそう述べる。

断定されるのは、聞く人にとって心地よい。聞いている人の思考が安定するからだ。いや、安定しているように錯覚するからだ

目標をもって生きる

話を変えよう。目標をもって生きることについて考えよう。それは、目標に引っ張られて盲目的になることにつながる。世の中には、目障りなことが多い。ある人にとっては生きるヒントを得られるシグナルかもしれないが、シグナルにならないサインが世界には溢れている。無駄が多いからこそ、無駄ではないものが大切で愛おしく思える。無駄を身体に透過させることで、無駄を無駄と峻別できるようになる。何事も経験が大事だ。経験に勝る薬はない。もちろんプラセボだと言えばそれまでだ。

ウィスキーを飲んで酔っ払うのとビールを飲んで酔っ払うことに、文学的な違いはあるのだろうか。もちろん、経験的な物語に違いはある。文脈は、必ず過程を経ずして生まれないからだ。結果論から言えば、酔っ払ったという状態に視点を向ける限り、違いはないと言える。しかし、ウィスキーの味を知ったのと、ビールの爽快感を知ったのでは大きな違いがあるのではないか。それを人生に置き換えたらどうか?

人は生まれて死ぬ。大本と最後を言えば、人生は誰しもこの始まりと終わりで定義づけられる。入口と出口が同じなのだから、人生において大事なのは、中身、つまり人生で何を経験して何ができるようになり、どんなことを学んだかだと言えるのではないか。

やりたいこと、なりたいもの

じゃあ、君は一体なにをしたくて、何になりたいのだろうか?その答えがいまはっきりとわかっている者は、よほどの幸せな人か、盲目的なバカだろう。君はどうか?

わかっていない者だろうな。盲目的なバカと言われないでホッとしているとすれば、アホだ。バカは、注意されて行動を軌道修正する望みがあるが、アホは性質を述べているのであって、なかなか治らない。まあ、アホだとしても先に進む必要があるし、君がアホと決まったわけではないので(そもそもホッとしているアホと決めつけるのは性急だ)、わかっていない迷子と位置付けておこう。

人生でどんなことをして、どんな人間になりたいかわかっていないなら、どうしたらいいか。俺がそんな答えをもっているはずはないのだけど(俺だってどうしたらいいかわかっているつもりになっているだけだ)、ひとつ言えるとすれば、何かやれということだ。何もやらずにウンウン唸っているだけではだめだ。やることで見えてくることなんてたくさんある。その多くは、意味がないことのように思える。だって意味付けができるほど、君は経験を積んでいないのだから。いろいろとやってみることで「これは自分のやりたいことではない」と思う。または、やっていると時間が過ぎるのを忘れるくらい熱中してしまうことだってある。どちらにせよやってみるまではわからないことだ。

指南書を読んだところで。。。

本を読んでやってみたいことを見つけるという方法もある。何かをやるにあたって指南書は、一助となるのは否定しない。だが、指南書だけを読み続け、指南書の専門家になったところで、指南書の外側にやりたいことを見つけるのは不可能だ。なぜなら、指南書を読むことによってやりたいと思ったことを実際にはやっていないからだ。

つまり、やりたそうなことを見つけた気になっているだけだ。だから、やっぱり指南書を読んだら、やりたそうなことを実際にやってみることなんだ。やってみないと本当にやりたいことなのかすらわからない。

だから、やれ。もちろん、やりたいことがわからないなりに、自分の気持ちや考えを文章に認めるのは、有益だと思う。なぜか。いまの状態が保存されるからだ。いまの状態を保存できると、自分の志向の傾向が分析できるようになる。人というのは不思議なもので、今の自分ですら、静止画にしないと冷静に見つめることができない

やりがいがあったことを書く

過去の「今」を貯めておくことで、自分のやりたいことの方向性、いや、やりたくないことの方向性が見つかることもある。ゆえに、指南書を読んでやってみたそうなことを実際にやってみて、やってみた実感を文章に認めていけば、ログができて、方向性を確認して、次にはよりやってみたそうなことに挑戦することができるのだ。

そのサイクルを回して行けば、本当にやりたいことに、(謙虚に言えば少しづつ)近づいていくことができるのだ。そろそろ、抽象的な話は終わりにしようか。君もやりたいこと概論については、この講義を通じて単位が取れたと思うのでな。

よし、君がいままでやりがいがあったことを箇条書きでいいから、いや、箇条書きがいいので、ここに記していってくれはしないか。楽しかったこととしなかったのは、往往にして楽しかったことには、自分が仕掛けたものではなく、他のものによって与えられたことが含まれていることが多いからである。では、やりがいがあったことを箇条書きしていってみてくれ。

(例)
・部活の試合
・運動の技術向上
・調理(人に料理を提供)
・大学の論文、レポート
・フランス語の小テストの攻略
・エクセルの技術向上
・中学校の劇上演までの準備と本番
・一人暮らしの生活用品の調達、購入
・コントでの笑いの提供

「こじつけ」を躊躇なくできるか

やりがいがあったことを振り返る作業は、自分が何ができたかだけでなく、何ができなかったかを洗い出すことにつながる。できなかったことを克服する経験を積むもできることに集中して人生を駆け抜けるも自由だ。何もできない悩む時間を楽しんだっていい。

大事なのは、自分が関わる「ことがら」に意味をラベリングすることだ。

こんなことを書くと今までの話は何だったんだと言われても仕方ないが、実は、やりたいことの方向性がわかったとしても、やりたい「ことがら」は、見つかるものでも見つけられるものでもない。やりたい「ことがら」は、意味付けるものだ。この瞬間の行動に気持ちとストーリーを添加する「こじつけ」。未来からでも過去からの味付けでもいい。目標から逆算しても経験から積み上げてもいい。
「こじつけ」なんだから、自分で面白いと思える話にした方が保存が効いて、あとで食べても美味しいだろ?

なぁ、コジコジ。

「やりたい「ことがら」」は、そんな感じ。

fin.

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